経済の中に社会をとらえる、そして社会の中に経済をとらえる

教授 水岡 不二雄

2001年9月11日。ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャック機が突入、ビルは崩壊し、6000人を超えるといわれる人々が瓦礫の下に埋まりました。世界を震撼させたこの凄惨な事件を、諸君はどのように考えたでしょうか。

経済の中にある社会

経済学とはビジネスの学問だと考える人は、株価や企業経営がまず気になるにちがいありません。一時はやされたITも、e-コマースも、繁栄はすでに過去のものとなっています。炭疽菌が撒かれ、アメリカ人は恐怖におののいて、消費は急速に冷え込んできました。こうした難しい状況で、どの銘柄に投資するのがよいのか。あるいは、どのような新分野に事業展開しどこをリストラすれば効率的な経営となるか。経済学が、答えを与えてくれそうだから、私は経済学を学びたい――もちろん、こう考えるのが悪いわけではありません。しかし、「経済学のようなさもしい金儲けの学問はいやだ。だから自分は、経済学なんかよりもっと他の社会科学を勉強したい」と考える人もいるでしょう。でも、ちょっと待ってくれませんか。実は、どちらの考えも、一橋大学経済学部というものを正しくとらえていないのです。

株価はあくまで現象です。その背後には、さまざまの複雑な変数がからみあっています。価格。利潤。賃金。国民所得。外国為替レート……。経済学には、これらの諸変数を説明する、堅固な論理があります。こうしたさまざまの経済変数相互の絡み合いの中から、経済学者は経済現象を分析し、説明しようと試みます。しかし、その分析からでてくる結論は、企業経営者や時の政府の耳に快いものばかりとは限りません。「社長の経営方針は間違っている、政府のやり方は誤っている」という主張にむしろ支持を与えるものかもしれません。経済学の堅固に構築された論理は、金儲けのテクニックなどではなく、さまざまの経営的・政治的立場から独立して、現象を説明する客観的な洞察力を提供してくれるのです。

だが、こう考える人もいるかもしれません。「経済学が堅固な論理を持っているといわれれば、なるほどそのとおりだ。だが、それは、どんな現象でもみなしかつめらしい数式やグラフに翻訳してしまう、無味乾燥な論理ではないのか? 自分が関心を持っているのは、数式ではなく、生きた人間であり、動いている社会なのだが」と。

だが、もう少し考えてみませんか。経済学者がその数式に好んで使うものの一つに、貨幣があります。貨幣は、その奥に何もない素粒子のような究極の存在でしょうか? 地球上のほとんどの貨幣は、マクロ経済の重要な要素である金融政策に基づいて発行されています。貨幣が流通する空間的な範囲は、ほとんどの場合、国民国家の空間的な単位と同じです。例えば、日本国内では日本円、中国国内では中国元が流通します。しかし、ユーロのように、国家領域を超えた通貨も登場し始めました。逆に、同じ中国なのに、香港特別行政区という特定の地域だけ、香港ドルという別の通貨が流通している場合もあります。これらはすべて、政治により仕切られて作り出された貨幣の流通空間なのです。ところが、中国本土でも香港に近い珠江デルタ一帯では、香港ドルも自由に流通しています。なぜなら、中国元よりも強い通貨として、人々は香港ドルを自発的に選好するからです。ここには、複数の通貨の選好をめぐる市場メカニズムが作用しています。このように、通貨という最も経済学者が数量化しやすい変数であっても、そこには、「政治」と「経済」いう両者のインターフェースが強く働いていることが理解されるでしょう。

貨幣は、価格を表現する手段であり、物財を取引する手段です。大昔の人々は、自分で生産できないものを物々交換によって手に入れていました。しかし、物々交換ではいろいろ不便なことが起こります。そこで、経済主体同士がたがいに商品を交換してもよいと考える交換基準である価格というバロメーターができあがり、これにしたがって、人々は貨幣という取引手段を用いて分業を組織するようになったのです。つまり、社会的分業が、財という物に表現されたのが価格なのです。価格は、個々の取引主体同士の社会関係が積み重ってできた、社会的分業の鏡にほかなりません。このように、価格という経済学に基本的な変数ですら、その背景には社会が存在しています。

社会の中にある経済

もう一度、ニューヨークに戻りましょう。なぜ、世界貿易センターは攻撃されたのでしょうか? このことを理解するためには、今日の市場経済のグローバリズムという問題を考えないわけには行きません。事件の主犯と目される人物をかくまう勢力が実効支配しているアフガニスタンは、アメリカを頂点とする世界の国際分業体系からも、市場のグローバリズムからもから完全に取り残された、最貧途上国でした。今回の事件の底流に、このような経済格差への不満があったことは、容易に想像できます。ではなぜ、グローバルな市場競争が世界を均等化するといわれ、「地理の終焉」が語られる今日、アメリカとアフガニスタンという二国に、これほどに大きな経済格差が生じたのでしょうか。どうしたら、この巨大な経済格差を徐々になくして、人々を貧困と飢餓から救い、世界中に本当の平和をもたらすことが出来るでしょうか。最貧途上国の開発という難しい問いに答えるには、経済学の堅固な論理がどうしても必要です。

また、なぜ攻撃対象はニューヨークの世界貿易センターであり、東京の霞ヶ関ビルではなかったのでしょうか? このことを考えようとすると、経済と社会が世界中に作り出している、都市建造環境のシンボリズムということを考えざるを得なくなります。世界貿易センターはまさに、世界都市ニューヨークの、しかも今日世界を支配する市場経済のグローバリズムそのものが物の形をとった象徴でした。経済関係は、この種の象徴を各地に生産しています。それは、攻撃の対象という物騒なものでなくとも、研究の対象として、都市建造環境から経済や社会を読むという興味を、人々に与えてくれているのです。

社会を本当に深く理解するために

このように、経済の諸概念の背景には社会や物質が存在しており、同時に、社会現象やそれが作った物質の背景には、経済がはっきりと存在しています。狭義の経済と狭義の社会は、両者が補完しあって、広い意味での社会を理解する座標軸と理論を提供してくれるのです。

経済よりも社会のことを考えたい・・・と考えている高校生、受験生のみなさん。あなたの関心が、数式ではなく、生きた人間であり社会なのであれば、それはまた大変に結構です。一橋大学経済学部には、幅広い講義やゼミのバラエティがあり、どのように個性的な志向を持った学生にも、十分に満足と納得のいく勉学の場を提供しています。数学を用いて厳密な理論を展開する狭義の経済理論にとどまらず、経済の背景にあり、かつ経済を補完する社会を考えるためにも、一橋大学経済学部こそが、理想的な勉学の場です。一橋大学経済学部で学べば、経済理論が提供する体系とあいまって、現代のグローバルな社会を、根底から積み上げた経済と社会の論理にもとづいて堅固に説明する枠組みを身につけることができるようになります。このような知的武器を身につけて卒業すれば、いまグローバルな活躍で注目を集める、NGO、NPO、国際機関への就職などへの道もひらかれます。

一橋大学経済学部の門をたたいてください。心から待っています。