ひどく酔って、志村五郎著『鳥のように』(筑摩書房)の「丸山真男という人」を読む 高校時代の友人を一昨日失って、今夜、通夜から戻り、今、ひどく酔っている。その勢いだけで書く。 仕事上で知りあった読書人(私は彼の読書に一目置いている)から、あの谷山・志村予想の数学者・志村五郎が『鳥のように』(2010年、筑摩書房)で、あの丸山真男を「彼が心がけたのは学問というよりは、耳にひびきのよいレトリックの文章を綴ること」と批判していると知って、急ぎ『鳥のように』を購入した。 私は、社会科学者としての丸山真男が大嫌いである。彼の名論文とされる「超国家主義の論理と心理」や名著作とされる『日本の思想』を大学時代に読んだが、何を言おうとしているのか、さっぱり分からなかったからである。当時の私には、レトリックばかりが巧みで、空疎なことを語っているようにしか思えなかった。当時に抱いた感想は、今も変わらない。 あの志村があの丸山をこてんぱんにやっつけてくれる風景を鑑賞することができるのであれば、さぞかし痛快だろうと、大いに期待した。しかし、後味の悪い読書であった。 志村は、丸山の本業を批判したのではなく、周辺の教養を揶揄していて、1996年に亡くなった人のことを今になって、なんやかんや書かなくてもと、正直なところ思った。 しかし、志村が言っていることは、正論にちがいない。私には、志村ほどの中国古典に関する素養も、音楽に対する含蓄もないので、正味のところで判断できる能力がないが、丸山の中国古典の教養や音楽に対する評論は、志村のすばらしい素養を前にすれば、お粗末なものだったにちがいない。志村の言うように、それらの部分は、丸山の盲点であり、限界だったのであろう。志村の主張にまったく同意する。 読後の後味の悪さは、志村が、丸山の教養よりもさらに小さな部分集合しか持たない読者だけを念頭としているように思えたからであろう。しかし、当時、丸山の著作に接した読書人は、そのように知的に偏狭な人々ばかりだったのであろうか。おそらくは、中国古典を専門とする研究者であれば、丸山の好い加減さは自明なことでなかったか。音楽を深く愛する教養人からすれば、丸山の音楽評論の浅薄さは腹立たしかったのでなかろうか。 同じく、丸山真男の社会科学の仕事についても、時事的な判断能力についても、胡散臭さを感じていた人々は数多くいたにちがいない。私のようにかならずしも教養があるとはいえない大学生でも、そう思っていたのであるから。 志村先生、われわれ社会科学者が丸山真男に対してアンビバレントな感情を持ってしまうのは、丸山の知的限界に腹立たしさを感じているからではないのです。社会科学者にどこまで高い教養を求めてよいのか、私には正直なところ分かりません。 われわれの無念は、丸山を前にして、現在進行形で、丸山の主張や情勢判断が本質的に間違っていたことについて、丸山とガチンコ勝負ができなかったからです。 志村先生がおっしゃられる点ですが、丸山をはじめとした進歩的文化人が1950年代から40年間にわたって確信犯的に朝鮮戦争開戦の事実関係を捻じ曲げてきたことも、多くの知識人は痛切に感じていたように思います。それにもかかわらず、あの時代的な雰囲気の中で、異議を感じていた知識人たちも、沈黙を強いられたというよりも、かなり意識的に沈黙を選択したのだと思います。ですので、今の時点になって、社会的に守られたところで、何を言ったところで、お釈迦様の掌の上での発言にすぎないとしか言えないのでないでしょうか。たとえば、筑摩書房にしても、「丸山真男という人」を1970年代、1980年代に出版するような肝っ玉はなかったように思います。 正論はいつの時代でも正論ですが、それが何らかの社会的な意味を持つのは、正論を押し出す瞬発力にかかっていると思います。おそらくは、自然科学的な主張と社会科学的な主張のちがいなのかもしれません。言うべきタイミングを失った主張は、いくら正論であっても、気の抜けたビールのようであります。 われわれアカデミックな研究者にとってとてつもなくつらいのは、タイミングを熟慮した社会的な発言が、正論であれば、あるほど、アカデミックな価値がないということではないだろうか(要するに、正論とは、素直に考えてみれば、他愛のないことが多いので…)。さらにつらいことは、社会との軋轢を覚悟して発言することは、学問に費やす時間のかなりの部分を犠牲にしなければならないことであろう。いかなる者であっても、90年代前半までに不用意に丸山批判を展開したとすれば、時代は、一人の研究者の人生を平気で飲み込んでしまったであろう。 いつ何時も学術論文を書く筆は絶対に休めたくないし、一旦休めてしまえば、再び学問の筆を取るのにおそるべき労力を要してしまう。それは、プロフェッショナルな楽器演奏の継続と同じである。 アカデミックな活動を持続しつつ、プロフェッショナルとして時代とともに添い寝をしていくということが、少なくとも、われわれ凡人にとっていかに大変なことか。 丸山の仕事は、志村の言うように、「彼が心がけたのは学問というよりは、耳にひびきのよいレトリックの文章を綴ること」だったのだと思う。それにもかかわらず、アカデミックな仕事が、そうしたジャーナリスティックな仕事に真正面から勝負できなかったというところに、丸山にまつわる複雑な感情があるのでないだろうか。丸山の仕事を前にして沈黙した人たちの側にある無念といった方がよいのかもしれない。(2011年1月12日) 酔って寝てしまった。今、続きを書く。 志村のエッセーを読む前に何となく期待した風景とは、「丸山さん、あなたの漢文素養って、若者に自慢できる程度のものなのかなぁ」、「あなたの音楽談義を聞いていると、何だか肩が凝りますね」、「社会科学者があのように歴史的事実をひん曲げてはね」、「あなたの文章って、巧みなレトリックだけじゃないの」と、力を入れずに、柔らかな言葉で、時にはため口で、しかし、とてつもない緊張感を持って、志村が丸山に語りかけるシーンであった。当時、丸山に向かってそのようなことをいえる人はほとんどいなかったであろうから、志村の何気のない言葉が、丸山が書くものに無視できない影響を及ぼして、志村は、数学界の途方もない貢献とともに、目に見えない形ではあるが、日本社会にも重大な貢献をなしたのでないかと思う。 天才の志村にできずに、凡才の私にできることを考えた。自分のアカデミックな仕事について、学界での貢献だとか、社会的な意義だとか、さらに大げさに人類社会への貢献ということなどをまったく考えず、自分一人に対する私的なチャレンジであると考えれば、自分が必要と感じた時に、勇気を持って一時(あくまで一時的であるが)、論文を書く筆を置くことができるように思う。そういうふうに考えれば、自分だけが納得すればよく、学問を中断することの社会的なコストなどと大上段に構えることも、「事業仕訳」の現場で飛び交っている「社会的な意義」などという袋小路に迷い込まずにも済む。 それが、50歳からの人生が残されている自分が、無念にも50歳からの人生を奪われた友人のためにできることなのではないかと思う。(2011年1月13日) ホームのページ |