ノチウエンルム、あるいは、星の岬の後日談




 実は、日塔聰の美しい散文詩「冬の星」に出てくるノチウエンルム(アイヌ語で星の岬を意味する)が実在の地名であると見当をつけて調べてみたが、埒があかなかった。聰が編集した『枝幸町史 上巻』で更科源蔵が執筆した「枝幸町地名解」には、ノチウエンルムという地名が見当たらなかった。
 その時は、同じく聰編集の『雄武町の歴史』に更科が執筆した「アイヌ語の地名」の方は、不覚にも調べなかった。いくつかの理由(言い訳?)があったように思う。まずは、「枝幸町地名解」の方は、聰が地名カードを作成するなどして、更科に積極的に協力していたことについて、更科が最後に付記していた。それにもまして、ノチウエンルムという言葉がもたらすイメージが「枝幸の地名にちがいない」という先入観を私にもたらしてしまった。俄か知識で、エンルムとエサシが同じく岬を意味するアイヌ語だということを知ったからかもしれない。また、「冬の星」の導入がワッカナイ(稚内)の夜空であったことから、より北方に位置する枝幸の方を勝手に選んでしまったのかもしれない。
 『雄武町の歴史』の「アイヌ語の地名」を読むことなく、せっかちにGoogleで「ノチウエンルム」や「星の岬」で検索すると、次の3つをさがしあてた。

1.原田康子が1985年に『星の岬』という長編小説を出版した。
2.高城高(こうじょうこう)が『宝石』1963年11月号に『星の岬』という短編小説を寄稿した。
3.山歩きのページというウエッブに2007年2月19日に「三段峡のアイヌ語地名」という論考が掲載された。

 原田の作品や高城の作品を読んだ後も、「ノチウエンルムが枝幸近辺にある」という私の先入観は、それほど間違っていなかったように思えた。
 原田の作品では、枝幸近くの知里志別(ちりしべつ)という架空の町の沿岸にある岬が星の岬となっている。アイヌ語でノチェ・エンルムと呼ばれていることも記されている。涌谷佑子というヒロインには、

 
あのへんは、どこでも星がきれいですよ。夏より冬の星空のほうがみごとね。あの岬は、アイヌのひとたちが漁に出たとき、北極星かなにか、岬の上の星を目じるしに帰って来たので、ノチェ・エンルムというそうよ。かれに聞きました。そういう話を聞いているうちは、たのしかったんですけどね。

と語らせている。
 高城の作品では、冒頭の方で、雄武から北見枝幸に向かう沿岸に星の岬があることが記されている。ただ、枝幸に近いと言っているわけではない(すべての事情に通じてからよく読んでみると、むしろ雄武に近い記述をしている)。小説のシチュエーションは、オホーツク沿岸のドライブで男が女に別れ話を切り出そうとしているところである。

 「あら、岬なんかどこにもないでしょう」
 「いや、“星の岬”というのは普通の岬とは違うんだ。海のなかにポツンと突き出た大きな岩のことをいうんだよ」
 「どうしてそれが岬なの?」
 「航海なんかの目印なんだな。それでアイヌ人が星という名をつけたわけさ。どうしてこんなところに来るといいだしたんだ」
 「名前がロマンチックだから、いつか行ってみたいと思っていたの。どこへでも連れていってくださるといったでしょ?」


 原田の作品の「星の岬」が作家の想像から生まれた架空のもので、高城の作品の「星の岬」が実在のものであったことを知ったのは、もう少し後になってからであった。

 三番目にあげた「三段峡アイヌ語地名」という論考は、とても面白い。匿名の筆者は、広島県と島根県の境で広島側の中国山地にある渓谷、三段峡の地名の源をアイヌ語にまでさかのぼって解釈することを試みている。一見すると荒唐無稽な試みは、「アイヌやエミシの源流となった東日本縄文人は、縄文後期に西日本の山間部に移り住んだが、そうだとすれば、山間部の地名に、その痕跡があるはずである」というまっとうな仮説に基づいている。
 その論考では、三段峡に「十文字キビレ」と呼ばれている場所があるが、アイヌ語で「ノチュウ・モム・シリ・キビリ」が転訛したとして、「星が・流れる・山の・丘」と解している。その根拠として、ノチュウの部分は、伊藤せいち著『アイヌ語地名II 紋別』(北海道出版企画センター、2006年)にある「nochiw-enrumu 星・岬」を引用していた。この地名辞典は、大学図書館になかったので、古本屋から購入した。
 今から冷静になって思うと、ノチュウ・エンルムという地名が「紋別」を対象とした地名辞典に含まれているのを知った時点ですぐに、紋別に近い雄武町史、すなわち、手許にあった聰編集の『雄武町の歴史』を開けるべきであった。先ほど述べた先入観に、オホーツク海沿岸の土地勘のなさが手伝って、そのような反射神経がまったく働かなかった。
 『アイヌ語地名II 紋別』が自宅に届くと、私はさっそくノチュウ・エンルム(本では、ノチゥ・エンルムと表記されている)を引いたが、自分がずいぶんと回り道をしたことを悟らされた。ノチゥ・エンルムは、雄武の西部を流れる幌内(ほろない)川河口の東側の沿岸沖にある岩礁であった。正確に引用してみよう。

nociw-enrum (4003-10川口東) 紋・雄武町字幌内
ノチゥ・エンルム [星・岬]。ポン・エンルムにある「三角岩」と呼ばれた岩礁。「永田地名解」に「Nochu enrum ノチウ エンルム 星岬 古へ此岬ニ星落チタリト云イ伝フ」。「雄武町の歴史」は「岩礁の突端にある小さな孤独な岩も導く指標となったり潮の干満や時刻を教えたり、アイヌの生活にとっては大事な岩であったに違いない」としている。
 資料.「雄武町の歴史」ノチウエンルン 昭和35年の大時化のときくっきり浮かぶように立っていたこの岩が横転したそうだが、いまでもここにすむ漁師の道案内の役目を果たしている。


 この個所を読んでやっと、手許にある『雄武町の歴史』で更科が担当した「アイヌ語の地名」を読むことになった。本章は、冒頭に概説をした「アイヌ語の地名について」と、個々の地名に論考をめぐらした「地名解」から成っている。概説部分には、以下のような記述があった。

 
雄武町の海岸線をたどると、オニシ、オム、オウコツナイ、オトイネツプなど川尻の特徴をつかんで命名された地名や、ノテトをはじめウエンノツ、ノチウエンルム、ポンエンルム、チカオッエンルムなど岬につけられた地名、フンペオマナイ(鯨)、シェプントー(うぐい)、シュルクウシオニシ(とりかぶと)、サワキ(葦)、イナウニウシュペツ(御幣をつくる木)、エペウカルーシナイ(鮃)などの動植物あるいは特産物によって名付けられた地名など、そのどれもが鋭敏な感覚によって特徴づけられたもので、地名をたどるだけで往時の多彩なアイヌの生活を想像させる。(引用者改行)
 その繊細な一面を示すものに、ノチウエンルム(星の岬)という抒感的な地名が遺されている。「蝦夷語地名解」には「星岬 古へ此岬ニ星落チタリト云イ伝フ」と解説されているが、現在三角岩とよんでいるのがそれである。更科源蔵は「北海道の旅」にノチウエンルムを次のように紹介している。「アイヌの人が星の岬という美しい名をつけた岬も、行ってみると波の中に小さな玉石が一つころがっているだけである。この石を右に見て舟を陸に寄せれば安全、左はおそろしい岩礁がかくされていた。舟を導く海の星であったにちがいないが。」岩礁の突端にある小さい孤独な岩も、舟を導く指標となったり潮の干満や時刻を教えたり、アイヌの生活にとっては大事な岩であったにちがいない。

 当該章の本体部分である「地名解」には、同じ三角岩がヤマウシユと呼ばれていたことも記している。

 
古い5万分図ではポンオムシュイの次の岩礁付近に記入されている地名である。知里博士の地名辞典にはヤマは日本語の山であるが、このヤマは漁村で見当をつける目標の「ヤマをたてる」のヤマで、現在三角岩といっている岩礁のあることと思う。この岩を目標にして岩礁をさけて、舟を澗に入れたという。そのヤマのあるところ(ウシュ)の意と思う。
 永田氏の地名解にあるノチウエンルムというのが、同じ地点を指しているらしく、この岩礁をノチウエンルムといっていることは、桶川さんの証明でも明らかであるから、あるいは同じところを別名でよんだとも解されるが、すこしずれているところの名であるかもしれない。ノチウエンルムを永田氏は、「星岬。古へ此岬ニ星落チタリト云イ伝フ」と解説している。これが現在三角岩といっている岩で、岩礁と岩質が違い、この岩だけ岩礁から離れているため、星が堕ちたものと伝えられたと思う。


 最後の一文「これが現在三角岩といっている岩で、岩礁と岩質が違い、この岩だけ岩礁から離れているため、星が堕ちたものと伝えられたと思う」とは、まさに概説にあった「そのどれもが鋭敏な感覚によって特徴づけられたもので、地名をたどるだけで往時の多彩なアイヌの生活を想像させる」ものであろう。
 「地名解」のヤマウシュの箇所には、ノチウエンルムの写真もあり、

 
昭和35年の大時化のときくつきり浮かぶように立つていたこの岩が横転したそうだが、いまでもここに住む漁師の道案内の役目を果たしている。

と注が付されている。横道にそれてしまうが、高城高が1963年に執筆した短編『星の岬』でノチウエンルムの場所と由来を正確に記述していたのは、北海道新聞で記者をしていた高城が、1960年の大しけで雄武町の三角岩が横転したニュースに接していたからかもしれない。
 
 私は、『雄武町の歴史』で「アイヌ語の地名」とタイトルのある章を読み飛ばして、聰の詩「冬の星」に向き合っていたことを深く恥じ入らなければならなかった。「アイヌ語の地名について」と題された章の概説には、上に引いたように、「更科源蔵は「北海道の旅」にノチウエンルムを次のように紹介している」といった記述があることから、もしかすると、更科が執筆したとされている章の概説部分「アイヌ語の地名について」は、更科の長年にわたる研究や取材の成果を、聰が編集者としてまとめたものかもしれない。文章は、聰らしく簡潔で端正である。この章は、『枝幸町史 上巻』の「枝幸町地名解」と違って、更科は聰への謝辞を記していないが、聰と更科の共同作品とみてよいのかもしれない。(2010年9月11日)


追記:瞬時的なやり取りを求めて、質を問うことなく情報を垂れ流していくようなネットの世界は、どうしても好きになれなかった。しかし、縦横無尽に検索ができるネットは、これまで手にすることができなかった情報、とりわけ、自分自身が事情を通じていない分野の貴重な情報を提供してくれる。また、ネットの世界においては、物理的な世界だけでは絶対に出会うことができなかった人々とのネットワークが広がる可能性もある。
 ネットは、目の前のパソコンの画面に図書館と集会所を持ち込んできてくれる。この役割は、率直に評価しなければならないと思う。同時に、時間をかけてこうしたネットの機能を活用していくべきでないかとも思う。図書館の本をじっくりと読むのにも、集会所で丁寧に議論を煮詰めていくにも、ずいぶんと時間がかかるはずである。ネット上で図書館や集会所を活用する場合であっても、十分な時間をかける心づもりが必要なように思う。
 サーチの時間はネットで大幅に節約できるが、考える時間議論する時間はネットでも省くことができないし、無理に省略すべきでないように思う。(2010年9月12日)


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