日塔聰の散文詩と二つの町史編纂


 
日塔聰(にっとうさとし)という詩人の名前を知ったのは、7月初めに山形県寒河江市在住の奥平玲子さんからいただいた手紙を通じてだった。世俗的な値踏みになって申し訳ないが、日塔聰は、『増補改訂 新潮日本文学辞典』の索引にも載っていない無名な詩人で、文学の門外漢の私など知る由もなかった。
 奥平さんは、日塔聰の最初の妻であった日塔貞子の詩を若い世代に伝えるために文化事業をしている女性グループ、桜桃花会の代表をされている。桜桃花会は、貞子の詩集『私の墓は』や、安達徹さんが著した貞子の評伝『雪に燃える花:詩人日塔貞子の生涯』の復刻に尽力されてきた。
 奥平さんは、知人の方から聰の詩風が吉田一穂のものに似ていると聞いたところに、私の『詩人の部屋』で吉田一穂を取り扱っていたのを偶然発見し、貞子の詩集や評伝とともに、聰の詩集(『新・現代詩文庫66 日塔聰詩集』、土曜美術社出版販売、2009年)を送ってくださった。聰の詩集は、150ページほどの小冊子である。

 7月末の大阪出張の折に、聰の詩集をかばんに入れて、新幹線の車中で詩集を開いてみた。最初の40ページは、詩集『鶴の舞』の詩がすべて含まれていた。『鶴の舞』は、28歳で夭逝した貞子の遺稿詩集『私の墓は』とともに、1957年に薔薇社から刊行された。ただ残念ながら、四季派の詩人らしい抒情を極めた詩は、私の関心を引かなかった。
 ところがである。次の17ページは、衝撃であった。これらのページには、1982年に聰が亡くなる前から友人たちによって編まれ、1985年に出版された『日塔聰詩集:鶴の舞・鶴の舞以降抄』から抜粋された散文詩が収められていた。抒情を極める傾向の強い日本の詩人たちは、散文になると、途端に破綻してしまうことが多い。吉田一穂は、日本的抒情から離れて、新しい韻文を確立しようとしたが、彼の散文の方は、散文が持っていなければならない明晰さと簡潔さの対局に位置するような代物であった。一穂への愛着がなければ、読めたものではない。
 しかし、聰の散文詩は、明晰さと簡潔さを備えた、日本の詩人らしからぬ散文なのである。私に詩集を送られた奥平さんの見込みは良い方向に外れて、幸運にも、吉田一穂とはまったく異なる資質の詩人に出会うことができた。
 詩集の最後の部分に収められているエッセイも、とても味わい深い。とりわけ、「北辺のゴールドラッシュ」抄が珠玉の作品であった。読み物としても、すばらしいできであった。年譜によると、同エッセイは、聰がほぼ一人で編纂にあたった『枝幸町史 上巻』(1967年刊)から抜粋されたものである。ただし、病状(結核)がおもわしくなかった聰は、下巻の編纂を断っている(下巻は、1971年に公刊された)。聰は、枝幸町史編纂の前にも、更科源蔵(詩人、アイヌ研究家)の紹介で雄武町史の執筆も引き受けていた(『雄武町の歴史』、1962年刊)。
 大学に戻った私は、図書館から『枝幸町史 上巻』を借りた。詩集に収められていた文章がほんの一部分であったことは、すぐに分かった。「日食と図書館」と「ゴールドラッシュ」の章は、生き生きとした筆使いで、とても公式の町史を構成している章と思えない。『雄武町の歴史』の方は、図書館に収められていなかったが、それほど高くなかったので、古本屋から購入した。


 以下では、聰の12編の散文詩のうち10編を、聰が編纂した二つの町史を脇に置きながら読んでいきたい。聰の一連の散文詩は、聰が渾身で編纂した町史と、本当に美しく交錯している。ここでは、そのさまを、少しでも伝えることができればと思っている。
 1985年に刊行された『日塔聰詩集』を編集した古川善盛は、そのあとがきで、詩集に晩年の散文詩が含まれたのは、聰の意向であったことを伝えている。その上で以下のように記している。「散文体で書かれた一連の詩は、日塔さんの作品の中でも最近の時期のものが多く、他の作品と読み比べると、明らかに別の世界と、言葉の厳しさが伝わってくる。」
 確かに、聰の散文詩は厳格な言葉の世界であり、他の作品と趣を大きく異にしている。しかし、健全な判断力とおおらかなユーモア、あるいは、たくましい想像力で自然や社会に真正面から接していく姿には、聰の小説家的資質を垣間見ることができ、他の作品とは異なった鑑賞の喜びを味わえる。また、聰が編んだ二つの町史は、公式の町史とはとても思えないほど、読んで楽しむことができる。勝手な想像になってしまうが、もし、病が聰の体を蝕むことがなければ、聰は、読み出したら止まらないような長編小説を後世に残したのでないだろうか。(2010年8月21日、29日)


嘔吐

 それは、いつから僕の体内に、行々子(よしきり)ほどの巣を営んだのか。しかも、振子のように正確な刻(とき)を掴んで来る。生体のどんなかぼそい影にも忍び入る。そしては、光一筋づつの夜のしらじら明け、朝明けの空気に研(と)がれた時の鐘、クレンザーで艶を増した食器の触れ合う音、炊き上がる御飯の甘つたるい匂い−また、夕陽がビルの稜線を辷り降り、けざやかな縞模様がほどけて、やがてあいたいとした藤色に変わるころ−そんな甘い時間をみんな僕から奪い取つて、二度と返そうとしない。それは、体液のありつたけを吐き出させて、そのあとに何を盛ろうというのか。“ガラサ満ち満ち給う御母丸屋(おおもまるや)”−聖寵でいつぱいになるのに、僕はもつともつと空つぽにならねばならぬ、そのためには、殉教者(マルチル)の栄光よりもさらに長い苦患(くげん)に耐えねばならぬ―そういうのか。そら、すがすがしい夜明けが来る。やさしい夕昏れが来る。僕はまたベッドの端にしがみついて、ゲツク、ゲツクとばかり空つぽになって行く。僕というこの小さな器(うつわ)は。

【ことば】「そしては」は、「そうしては」。「辷り降り」は「すべりおり」。「けざやかな」ははっきりの意。「あいたい」は、靉靆で雲や霞がたなびく様をいう。「ガラサ」は神の恩寵の意で、「御母」は聖母、「丸屋」はマリアを表す。「丸屋」は隠れキリシタンによるマリアの呼称であった。「ガラサ満ち満ち給うマリア」は聖母マリアに捧げる祈りの句(アベマリア、天使祝詞)に出てくる表現。

【雑感】年譜によると、浪速高等学校(文甲)に在学中から、カソリックに傾倒していく。聰は、カソリックの洗礼を受けたわけではなかったが、カソリックへの傾倒は生涯続いた。詩集の解説に収められている木津川昭夫の文章よると、聰の周囲の人たちも、カトリシズムに基づいた聰の生き方に感銘を受けるところが強かったようである。
 聰の人生は常に病気とともにあった。1946年(27歳)に東京で猩紅熱を患い1ヶ月半隔離生活を送っている。1948年(29歳)に山形県西川町岩根沢の山村で貞子と死別したが、そのころには結核の初期症状が出ていた。1953年(34歳)には、居を移した札幌で急性肋膜炎を患い入院した。1964年(45歳)、札幌で肺結核で即日入院と診断された。最初、幌西診療所に入院し、1年ほどで幌南病院に移った。その後、退院をするが、1977年(58歳)に国立療養所札幌南病院に再び入院をした。1982年6月に62年11カ月の生涯を閉じている。(2010年8月22日)



山の祭り

 山の木々の葉っぱは、まだわずかに枝につながっている、そんな雪来る前の山深い村には、きっと、慰めるような、だまかすような、秋晴れの日々がやって来る。丸山薫の詩碑の白布が落とされたときも、碑面はまぶしそうにキラキラと秋陽を弾き返し、その傍に、彼の大きい顔が並んだ。秋陽の奥には、彼の告別と不在の刻印が沈んでいた。人目をよそに、春は、いのちの花を飾り、秋には、深紅の炎と燃える、あれら 山ふかく、寂寞に生きる木々の姿が、いまは私になった。

 儀式が進んだ。丸山薫の面輪は 少しづつ暈(ぼ)けはじめ、吹雪の日のけば立ちのように乱れ、薄れ、遠退いていった。やがて、招魂のこだまの向うで、ひと声コウと啼くものがあり、彼はもう神さまになった。神さまは、山のずっと奥処(おくが)の老木の間に、ジッとしていればいい。そして、村人たちの人界のお祭りがはじまる。おのがじし、生涯の一つの季節の終焉を、手を振り、足を踏み、喚いては空(くう)に刻印しようとした。時ならぬ奇妙な祭り、とまれ盛大な山のお祭りだった。

【ことば】「こだま」は、木霊か。「コウと啼くもの」は、お稲荷様の狐であろうか。そう考えると、山のお祭りとイメージが重なり、おかしみが増す。

【雑感】丸山薫(1899−1974)は四季の中心的な詩人。丸山は、戦時中、月山山麓の岩根沢で代用教員を勤めていた。聰が自身の故郷に疎開することを勧めたのが契機だった。聰は、病をおしてであろう、1972年秋に岩根沢で開かれた丸山薫詩碑除幕式に出席している。「丸山薫の詩碑の白布が落とされたときも、碑面はまぶしそうにキラキラと秋陽を弾き返し、その傍に、彼の大きな顔が並んだ。」とあるので、丸山自身も除幕式に出席したのであろうか。丸山はその2年後の1974年秋に亡くなっている。聰が札幌で丸山の訃報に接して、詩碑のある故郷岩根沢の山々の風景に友人を偲んだ。(2010年8月23日)

【追記】丸山薫詩碑については、保存会会長の藤本昭一氏から大切なことをご教示いただいた。1972年の詩碑除幕式には、丸山夫妻も参加していたとのことである。また、詩碑の場所は、最初から岩根沢小学校のグラウンドであった(私は、当初、もう少し山の奥まったところに建てられたと勝手に勘違いしていた)。聰の「山の祭り」にある「人目をよそに、春は、いのちの花を飾り、秋には、深紅の炎と燃える、あれら 山ふかく、寂寞に生きる木々の姿が、いまは私になった。」は、詩碑に刻まれた丸山の詩であった。藤本氏にこうして教えていただいて、「山の祭り」にほんの少しだけ近づけたような気がする。(2010年9月14日)


薬剤

 昭和二十七年の夏、オホーツク沿岸に発生したブランコ毛虫は、勢を増しながら、渚滑川筋を攻め上って来た。木の葉、草の葉、ありとある緑を喰い尽くし、山の高みにあるときは時雨の音を立て、谷間にあるときは息詰まるような静寂をかもしながら、ゆっくり、ゆっくり、村里に近づいて来た。電柱は白ペンキで塗たくったように蛾がたかり、カラマツは奇怪な毛虫の柱に変った。誘蛾燈の灯もかき消され、焼き切れぬまま穴にいけ、卵一匁五円で買い上げたが、毛虫の流れは少しも衰えを見せず、あわてた林野庁は、一千五百万円の防除費を支出した。まさにこの世の終焉かと思われたが、動員された昆虫学者たちは、すぐ後を天敵が追いかけているので、間もなく衰退するだろう、と安請合をしてくれる。しかし補助金の手前、村では華々しく薬剤撒布が行われた。それも所詮は形だけのもの。さしもの毛虫の大群もやがて姿を乱し、黒板拭きで消すように意味を失って行き、秋に入ると、山の木々はまた萌黄の芽を吹きはじめた。あんな補助金の貰い得なら何遍でもいいね、と村の古老はうそぶいていた。

 戦争も末期のころ、信濃ではよく洋梨が配給になった。<熊の宿>の悪童どもは、まるで大根みたいだね、と青いのを噛ったが、堀辰雄の家では、とろりと黄金(キン)いろに熟れて来るのをじっと待っていた―透明な時間のなかで、生と死が一つ意味で熟れて行くのを待つように。戦争が終っても、この往年の理科学生は、新薬をきびしく拒みつづけた。そして、たった一度白い粉末の薬を服(の)んだが、それが体内の組織に浸透するのをひた恐れるかのように、急いで息を引きとってしまった。さて、この僕はと云えば、堀辰雄死亡の齢になっても、白い粉薬をつっかい棒に、借りものの生をわずかに生きて来た。そしてある夜明け、つき固められた抗生物質のスケレトンが窓から逃げてゆくのを見た―ぐんにやりとへたばっている僕を残して。

【ことば】ブランコ毛虫は、マイマイガの幼虫で、11年から12年の周期で大発生をする。渚滑川は、ショコツガワと読む。

【雑感】戦争末期(1942年、43年)の信濃の出来事は、軽井沢の別荘で療養中の堀辰雄周辺のものである。「ベア・ハウス」とも呼ばれた「熊の宿」とは、堀辰雄に私淑した東大医学生の森達郎が父親にねだって軽井沢に買ってもらった別荘である。「熊の宿」は、堀辰雄を囲んだ若い詩人たちのアジトとなった。東大仏文で教練をさぼっていた聰も、「熊の宿」の住人となっている。「熊の宿」の悪童には、聰の他にも、中村真一郎、福永武彦、三輪福松、小山正孝、鈴木亨がいた。
 堀辰雄は、1953年に肺結核で亡くなっている。享年48。「往年の理科学生」とは、東大国文科に入る前、一高では理科乙類だったことを指している。1967年に堀辰雄の享年と同じく48歳となった聰は、入退院を繰り返しながら、枝幸町史上巻の編纂を終えたばかりの頃であった。年譜によると、札幌在住の聰は、オホーツク沿岸の町、枝幸に取材でたびたび訪れていた。1952年に猪滑川沿いでブランコ毛虫が大発生し、その駆除に大わらわだったという記事は、その際に取材で得た情報であろうか。猪滑川は枝幸町よりも雄武町にはるかに近く、1962年に刊行された雄武町史編纂時に取材したものかもしれない。ただし、私は、手許にある『雄武町の歴史』にも、『枝幸町史 上巻』にも、ブランコ毛虫大発生の記述をさがしだすことはできなかった。
 大発生したブランコ毛虫に蝕まれる村里と、全体が結核菌に蝕まれていく体の対比、毛虫の駆逐に無力なのに補助金支出のアリバイとされる薬剤の大量撒布と、結核の猛威に効力がないのにさんざん体を痛めつけていく抗生物質の大量投与のアナロジーは、壮絶である。新薬を拒絶してじっと死を待った堀辰雄の姿と比べた聰の姿は、悲壮である。「補助金の貰い得」のユーモラスな挿話も、かえって悲しく響く。(2010年8月24日、25日)



流氷

 丘の上の測候所は、岸を離れる小型漁船みたいだった。測候所長は、沖に小手をかざす船長みたいだった。
 サハリン生まれの流氷群のリーダーは、目路はるかにつづく麾下をしたがえ、人々がまだ陰暦を使っていた昔から、太陽暦の日めくりを繰って、一月十六日というときっとやって来た。日を取り違えても、一週間と前後することはないと、彼は信じていた。羊群が牧舎に帰るように、やがて、生きものの温みが彼を押し包むだろう。
 彼の眼のなかに、僕は茫々たる流氷の原っぱをのぞいた。「サッポロはいいですね」と。彼は僕の眼のなかに、虹いろの街景を盗み見していた。びっくりしたが、そんなことにはおかまいなしに、円い水平線の裏側を、流氷たちがゆっくり近づいているところだった。
 測候所長は、暦に、冬の足音をこう書きつけた。一〇月一九日、北見山脈初冠雪。一〇月二五日、結氷初日。一〇月二七日、初雪。一一月二六日、根雪初日。一二月三日、オコツナイ川初結氷。一二月三一日、沿岸結氷初日。一月一六日、流氷初日。

 はじめからピッタリ接岸して、節になって行ってしまう流氷は質(たち)がええ、と漁民は言った。ほんとの海明けには、ひとかけらの流氷の影もないものだ。
 清姫の帯のように、沖にたゆとう流氷帯は美しい。それが実は魔性のもの、急にしなって岸を叩き、蟹籠や昆布の若芽をさらって行く。始末に負えない、淫奔(いたずら)娘だ。狭い根室水道をキシキシ音立てて、広い太平洋に押し出した流氷群が、急に向きを変えて、十勝や日高の春漁をかき乱す。それは、鰊場荒らしの莫連(あばずれ)女。
 あれほど指折り数えてひっそりやって来た流氷群も、行きしなには去りがてに、年によって一と月近くもずれがあって、測候所長も、彼等のさよならに責任がもてなさそうだった。そして、恥じ入っていた。
 測候所長は、暦に、春の足音をこう書きつけた。三月二四日、沿岸結氷終日。四月七日、流氷終日。四月一二日、根雪終日。四月一四日、鶺鴒観る。四月一七日、雲雀啼く。四月二〇日、サフラン咲く。五月一日、水仙咲く。五月八日、つつじ咲く。五月九日、結氷終日。終雪。

【ことば】「眼路」はめじと読み、視界の意。「麾下」は家来。「茫々たる」は広々。「清姫」(せいひめ)は、安珍清姫の清姫。清姫は、蛇に化けて自分を裏切った安珍を殺す魔性の女性。「たゆとう」は、揺らぎ漂うの意。「雲雀」はヒバリ。

【雑感】この詩は、1950年代後半、札幌から雄武町にたびたび訪れて町史編纂にあたっていたことを契機に生まれたものであろう。1962年刊の『雄武町の歴史』をみると、「丘の上の測候所」が雄武測候所、「測候所長」が第四代所長手塚武文であることがすぐに確認できる。雄武測候所は、オホーツク沿岸では網走測候所(後に気象台)に続いて歴史が古い。1942年から観測を開始してきた。ただし、2004年以降、無人化された。
 手塚が町史で執筆した「雄武町の四季」の章の最後(1166ページ)には、「流氷 過去15年間の資料によると、平年は一月十六日から四月七日までが流氷期間であるが、年によっては初日では一週間、終日では一カ月近くも前後する。早く襲来した年では昭和二十一年の十二月三十一日で、遅く去った年は十九年の五月十一日である。また早く去った年に二十六年の三月七日がある。」と記述がある。聰の詩にある日付は、手塚の観測記述に正確に一致している。詩人・聰が科学者・手塚の観測資料になみなみならぬ関心を抱き、詩を創ったことが大変に興味深い。
 面白いことに、戦中からの長い歴史を持つ雄武測候所の観測データは、詩人の想像力をかきたてたばかりでなく、地球温暖化という現代的な課題にも大いに役立っている。東北大学名誉教授の近藤純正氏は、観測機器周辺の環境変化が著しい都市部の気象データよりも、安定した観測環境にあった地方部の気象データの方が長期比較に適しているとして、雄武測候所や網走気象台の気象データに着目してきた。彼の研究によると、網走や雄武では、1978年を境として、気温が摂氏0.5度程度急上昇した。
 それにしても、データにちりばめられた「流氷」は、不思議な詩である。流氷の到来については、「日を取り違えても、(一月一六日から)一週間と前後することはないと、彼(測候所長)は信じていた。」とあるが、詩人の方には「はたしてそうであろうか」というニュアンスも含まれているように思う。一方、流氷の離岸については、「年によって一月近くもずれがあって、測候所長も、彼等のさよならに責任が持てなさそうだった。そして、恥じ入った。」とあって、科学者の率直な敗北宣言を記している。「流氷」と題された散文詩には、流氷の去来の時期に関する予想に、人間社会がずいぶんともてあましているさまがしみじみと伝わってくる。
 私は、聰が編纂した『枝幸町史 上巻』(1967年刊)にこの詩を読み解くヒントがあるように思う。聰が町史で執筆している「ゴールドラッシュ」と題された長大な章には、「流氷と越年米」という小節がある。1902年(明治35年)の冬は、流氷の到来が前年の12月だったために、12月に予定されていた定期船の最終航が枝幸港に入港できなかった。その定期船は、米をはじめとして3月までの越年物資を運んでくるはずであった。流氷期に完全な孤島と化す枝幸町は、越年物資がなければ、深刻な食糧不足に見舞われてしまう。その冬は、地元の米穀商三浦重吉が流氷の海に挑み、200俵の白米を輸送し、わずかに飢えをしのいだ。しかし、例年よりも早く3月に流氷が離岸し、物資を積み込んだ定期便の初船が枝幸港に入ることができた。人々はもちろん狂喜した。予期せぬ早期の到来が町に悲劇をもたらし、予想外の早期の離岸が町に天恵をもたらしてきたオホーツクの町々の歴史を聰が知っていたからこそ生まれた詩なのであろう。(2010年8月28日、29日)



流氷の陰

 静寂が、耳の底の方で、ジイーン、ジイーンと音立てるような朝が明けた。板戸の隙間から吹き込んだ雪が、布団の上に白い筋目をつけている。
 ゆうべ、波の音が遠退いてゆく音を聴きながら、ことしの海もお仕舞(すめえ)かと、焼酎をあおった。その滓が頭に残って、ギシギシ音立てている。流氷は一枚岩、茫々たる雪原は水平線を追いやり、掻き消してしまった。
 海辺のどの漁家の煙突からも、焼酎くさい煙と胴間声が立ち昇って、風にちぎられていた。魚一匹とれない海から、水産税ばっか高く取りくさって―。さりとて、着業資金の貯えもなく、逃散(ちょうさん)もかなわない。
 死の海、誰かそう言っていた。故郷(くに)で聞いたあの世というのは、小暗く、骨片が寄り合ってほのぬくくさえあったはずなのに、流氷は、ただ真白で、平べったくって、どこまでも際限(きり)がなくって―。熟柿くさい呪咀は漁村の上空で絡み合って、わずかな慰めにはなったが、冷ややかに拡がる流氷にも、丘の上の役場の旦那方にも、遠い東京のお上にも、声は届くはずもなかった。

 流氷のおかげで、と年老いた漁夫が語ってくれた。ひとりでに濫獲防止、資源保護ができ、汚れない漁の鮮魚ということで魚価は高値に安定し、漁民の暮らしもまるっきり変わってしまってなア。明るい玻璃戸の向うには目路もはるかに流氷原がつづき、部屋うちには真白い反射光が溢れ、物影ひとつなかった。
 流氷の厚みに濾過された乏しい光がやっと届くあたりを、暗さに慣れた墨いろの魚群がゆっくりと游弋
し、昆布の若芽は黒いまま少しづつ膨らみを見せている。極北の冬のように時間は色あせ、気の遠くなるような平穏、どんな風浪も届かぬ流氷の陰の世界を、老漁夫は眼を細めてまさぐっていた。
 そして、海明けはいっぺんにやって来る。海面の波に揺さぶられた日の光は、牡丹花の縁どりみたいに縮れて、海中はポツポツといちめんの花園になる。魚群の肌は銀色の冴えを見せ、昆布の若芽は萌黄をきざす。しかし老漁夫はもう漁に出ようとしなかった。冬の日の習性のように眼を細めて、海中の生物たちといっしょに息づいていた。

【ことば】南方の酒と思っていた焼酎と出てくるのでオヤッと思ったが、事実、昭和の初めごろまでは、道内で消費される焼酎のほとんどが道外から輸入されたものであった。しかし、昭和の初めごろから、生産過剰気味だった馬鈴薯や澱粉を原料として焼酎が本格的に醸造されるようになった。胴間声(どうまごえ)は、濁って調子のはずれた下品な声。玻璃戸(はりと)は、ガラス窓。游弋(ゆうよく)は徘徊の意で、特に敵をまどわす軍艦の航行をいう。

【雑感】この詩も、聰が二つの町史編纂にかかわったことから生まれたものであろう。詩の舞台はどうも戦前のようである。戦前、北海道では、水産税という特殊な地方税が漁民に課されていた。水産税は、水産物産出額に対して一定の税率が課される。『枝幸町史 上巻』には、枝幸町が豊漁期の出荷額を基準にされ、漁民たちは高額の水産税に悩まされたという記述がある。なお、北海道の水産税の歴史については、西野敞雄氏の論文に詳しい。
 「流氷のおかげで、と年老いた漁夫が語ってくれた。ひとりでに濫獲防止、資源保護ができ、汚れない漁の鮮魚ということで魚価は高値に安定し、漁民の暮らしもまるっきり変わってしまってなア。」は、どのように解釈すればよいであろうか。明治になって北海道の魚場も濫獲され、明治の終わりには厳しい漁獲制限を検討せざるをえない事態にまで至った。しかし、流氷の到来で漁期が自ずと限られるオホーツク沿岸の漁業は、市場原理がもたらす汚れから距離を置くことができ、そのおかげでオホーツクの漁民たちは市場社会でかえって豊かになったと解してよいように思う。しかし、二つの町史は、オホーツク沿岸の漁業さえも、漁獲規制がかけられるようになったことを伝えている。
 詩の舞台は戦前であっても、その詩情は今の詩人のものである。聰の散文詩12編には、「流氷の陰」の他にも、「シバレ」や「早春」に、厳しい冬と対比しても、恵み豊かな春を素直には喜べない詩人の複雑な心情が詠われている。オホーツクの海をじっと見つめる年老いた漁夫は、流氷の陰で静かに息づく生命が、春の海で青春を謳歌する生命と何も違わないことを、静かに喝破していたのであろう。
 年譜によると、聰は、1953年6月16日に札幌の駅に降り立ち、1982年6月16日に62年11カ月の生涯を閉じている。6月16日は、毎年、北海道神宮祭(札幌まつりとも呼ばれている)で盛大な時代行列が街を進み、初夏の訪れを祝う日である。聰は、札幌在住中、オホーツクの老漁夫のように、祭りの喧騒から無縁だったのであろう。(2010年8月29日)


シバレ
(略)


贋の空
 風もないのにいつぺんに木の葉が枝をはなれ、漂い落ちる落葉にまつわつて、小鳥たちもチチゝと舞い降りて来る。透きはじめた木々の上の空、その水色を映して立つ炉の向うの硝子窓に、空と見間違えた小鳥たちがカチンと嘴をつき当てては、あわててジグザグに逃げ去つて行く。
 冬来る前のあわただしい幾日かを、僕はうつけたように窓ばかり見て過した。戦争に駆り出される日が間近だつた。
 そんなある日、小鳥の一羽が贋の空にイヤというほどつき当たり、地に堕ちたまま飛び立とうとしない。冷い土から拾い上げると、小さな体の鼓動が僕の掌いつぱいに拡がつて、やがて少しづつ
弱まつていつた。
 いつか天と地が暗く寄り合い、山容を消した中腹あたりから、烈風が雪を乗せて吹き起こつた。村里は、粉を吹いたように掻き消されてゆく。吹雪だ。飢えに追い立てられた雉子が一羽、吹雪に乗つて矢のように駆け下り、暗い目路の遠くに、ひとかけらほどの明るい空を見付けて一気につき進んで行つた。しかし不幸にも、それは直立する民家の壁、神のいない空だつた。
 とんだ拾いものだつたと、宿の主は、眼をつむつた雉子をどさりと炉傍に投げ出した。うつすら雪をかぶつていたが、羽根の下にはぬくみがほのかに残つていた。その夜、僕は足が冷えて、なかなか寝付かれなかつた。

【雑感】この詩の解釈には、まったく自信がないが、入隊中に詩友の訃報に接した聰の心情を詠っているのでないだろうか。年譜によると、聰は、山形歩兵連隊に入隊後の1944年夏に、津村信夫と竹村俊郎の訃を知らされた。安達徹の貞子評伝によると、聰は、入隊直後に即日帰郷を期待する向きもあったが、大隊砲中隊に配属された。当時、山形歩兵連隊からも中国への派兵が検討され、部隊が編成されようとしていたので、聰も、「戦争に駆り出される」覚悟をしていたのであろう。しかし、聰は、大陸に派遣される部隊のメンバーとはならず、1944年のうちに除隊されている。
 『日塔聰詩集』に収められている「津村信夫の山国」には、「そして翌年兵隊に取られ、初年兵という極限状況のなかで津村信夫の訃に驚き、除隊近くになって竹村俊郎の死を報らされた。」とある。そのエッセイには、聰が入隊する前年(1943年)の秋に堀辰雄たちとともに、戸隠に津村を追ったが、津村は定宿を発ったばかりであったことを記している。津村とすれ違ってしまった夜は、宿の炉端で津村のことや戸隠の四季に話がはずんだ。翌日、聰たちは津村を追うことを断念した。
 こうしたもろもろのことを、冬来る前の山宿の風景に重ねたのでないだろうか。小鳥が津村、雉子が竹村だろうか。(2010年8月29日)


禽獣

 
夜の白々明けから、お寺の社に集った鴉どもが啼き喚いている。これからどうやって生きてったらいいのか、彼等は緊急の寄合を開いているのである。しかし村人はちっとも駭かない、ハハア、流氷が接岸して餌場がふさがれ、野郎ども失業したナ、と知っているからである。
 ほどなく会議は済んだのか、鴉たちは三々伍々飛び立って行った。海が駄目なら、あまり性分の合う相手じゃないが、人間という動物どもの生活に密着することである。大口は水産加工場、牧場の牛舎、二、三羽づつは牛小舎、豚小舎、鶏小舎、そしてこそこそと料理屋や飲屋の裏通りへ。海明けまで、鴉たちは村の道々を人間といっしょに往き戻りして、海の方は見向きもしなかった。
 海沿いの道を行くと、流氷側の片っ方の頬っぺが痛いほど冷い。だから、誰一人海に眼を向けようとせずに、ただ道をいそぐ。そんな海辺に、小柄な年老いた男がジッと佇んでいた。動くものとてなく、見るものもない、いちめんの茫々たる白い原っぱ。老人は、流氷の向うに失われた、誰にも見えないものを、ひたむきに見つめている風だった。鴉たちが全部見限りをつけて去った海辺に、置き去りにされた一羽の孤独な老鴉、啼きもせず、飛びもせずに、ジッと佇ちつくしていた。

 サハリンからの長旅をつづけて来たトッカリ(アザラシ)は、動きを止めた流氷の上で、はじめての異国の風景を眺めまわす。いっぱいに見開かれたつぶら眼、真清水を湛えて澄みきった瞳。この気心のよさそうな他所者(よそもん)を素早く見付けた鴉は、仲間を駆り集め、黒雲のように一気に襲いかかる。彼等は嘴を突き立ててトッカリの瞳の水を掻き散らし、まず盲(めしい)にしてしまう。トッカリは何事が起こったのかを理解できない。俺はいま眼をつぶって、この新しい世界でいかに生きていくべきか、深いふかい瞑想にふけっているのだと思い込んでいた。
 流氷といっしょに動きを止めたトッカリの背後から、そうっと忍び寄る人間という動物の仔、彼等は道具を使う知恵をもっていて、いま一本の棒を隠し持っている。何の予備知識ももたないトッカリは、煙の立つ海辺の村から遠い雪嶺にせり上がってゆく風景を、ほのぼのと眺めていた。子供は、振り上げた棒を力まかせに打ちおろす。一瞬、トッカリの瞳のなかの風景はキレギレに四散し、掻き消されてしまった。悔いも恨みも知らぬトッカリは、やがて、長いながい旅路の向うに夢みて来た、恍惚とした幸せに沈んでいった。

【雑感】オホーツク沿岸におけるアザラシと人間の関係については、北海道新聞の2004年3月11日付け夕刊文化面が興味深い記事を掲載している。戦前、オホーツク海沿岸では、大人や子供が棒でたたいてアザラシを捕獲することが普通に行われていた。アザラシは、食用ばかりでなく、皮や脂肪も使われた。
 鴉や人間よりも、トッカリの方が、きびしい運命を粛々と受けて入れているのが印象的である。(2010年8月29日)


葬式
 父は寺の檀徒総代だった。その父が、死んだら神道で葬式を出してくれ、と遺言していたという。位牌持ちの兄は、内輪のことは全部遺言通りにするが、葬式だけはもう向きを変えることはできないと言い、僕もそう思った。アレヨ、アレヨと見る間に葬式は走り出し、父の死はすでに、蜘蛛の巣にガンジ絡めになった昆虫みたいだった。
 その後、高原の林で、僕は神道の葬式を見た。草の穂を渡って来る風に楽の音は吹きちぎられ、山肌を早い日昏れが辷り降りて、それは何とも冷えびえとした祭りだった。維新政府の廃仏棄釈の強圧に、この村人たちも俄かづくりの神徒に衣更えはしたものの、死んだひとは仏さまが好きだったからと、村はづれの小さな仏寺で葬式のやり直しをする家もあった。
 父は葬式を見過ぎてしまった。宗教宗派の是非をあげつらうことよりも、手垢のこびりついた俗信からどうにかして脱出したかった。そしてこの明治のダンディは、自らの死を孤立させ、清楚・荘厳(しょうごん)なものにしようと目論んだのだが、こんな反社会的行為は、かわいそうに許されることはなかった。
 孤リ暮らしの老人が、爪の先に火をともすようにして貯えた葬式費用を盗まれたという。何とも気の毒に思ったが、なぜ生きの命を縮めてまで葬式のことを思いわずらうのかいぶかしくもあった。妻も葬式の設計が好きで、僕はいつもたじたじの受太刀に廻ってしまう。
 そんなとき僕は、自分で自分の死を死にたいと開き直った。こづき廻されて、二度も三度も死なねばならぬ葬式なぞは真平だと揚言した。だが、しかし。
 かつて出会った死者たちは、みんな歩いていた。葬列は、村はづれから野の方へ、山の方へ、空の遠くの方へと流れていった。あるいは白布に包まれ、汽車の片隅にちんまり座って旅していた。
 火葬までは、どうにか事務的に処理されよう。しかしその後、僕の骨は、どうやって故山の墓地に辿り着くのだろうか。切符は売ってくれないだろうし、仕方がない、骨壷の肩を揺すりながら、カタンコ、カタンコ、埃まみれになって百里の道を歩きつづけるのだろうか。

【雑感】年譜によると、聰は、1945年2月に父を失っているが、この詩は、すべてを小説的な虚構に置いて考えた方がよいのでないか。死に向き合っている日々を過ごす札幌の地と、故郷山形の地の間にある距離を、詩人というよりも、小説家の想像力で埋め合わせようとしていると思えてならない。聰の散文詩、特に「葬式」は、聰の中に詩人的特質ばかりか、小説家的資質が備わっていることを示唆しているように感じる。二つの大部な町史編纂にみせた取材の丹念さや執拗さ、柔軟な判断力、健康的なユーモア、たくましい想像力は、もし、聰に十分な体力があれば、歴史の風雪に耐えることができる長編小説が著されたのでないだろうか。「葬式」は、そうしたとんでもない想像を私に駆り立ててくれる。
 何しろ、「神道の葬式」というアイディアがすばらしい。神仏混淆の習俗にあった江戸時代までの日本のどこにも、純粋に神式の葬式などあったはずもなく、何事も神仏が混然とした冠婚葬祭であった。明治政府が推進した神式の葬祭などは、何らの伝統にも、宗教的な理念にも基づいていなかった。良くいえば、形而上学的な儀式であり、悪くいえば、根なし草の代物であった。
 「明治のダンディー」だった「父」は、極度に形式的な神道の葬式を換骨奪胎して、自分だけの葬式を作り出そうとしたのである。
 それでは、「僕」だけの葬式とはどのようなものか。「僕」は、「父」のように自分の葬式を荘厳な形式性の中で純化させようとするのではなく、あくまで現実的、実際的な瑣末にこだわる。札幌でどうにかこうにか火葬された骨は、汽車に乗ることもできずに、どうやって故郷の山形にたどりつくことができるのか。確かに、「骨壷の肩を揺すりながら」歩いて帰るしかないのであろう。(2010年8月29日)


早春
(略)


メタフィジック

 
列なる泉を結んで流れが溢れ出し、川沿いには葦原が裾を拡げて、村人は「野(のう)」と呼んだ。野の若葦が子供の背丈ほどに伸びると、野生の鳥たちがどこからか集まって、巣づくりをはじめる。野はたちまち小鳥たちの楽園、カラガンズ(オオヨシキリ)はケチョケチョ、ホホドリ(ヨシゴイ)はホーホー、クイナ(ヒクイナ)は朝ごと板を叩くようにタタタタと啼き、バンドリ(バン)は足許の浮巣からバタバタと飛び立った。
 夏が来る。子供たちは葦原にかくれて鳥の卵を盗むことを覚えた。セピアの斑点のある小粒のカラガンズの卵、白磁のようなホホドリの卵、そして鶏の卵ほど大きかったバンドリの卵―これらこわれものの盗品で懐を膨らましたが、巣のなかに、きっと一箇の抱き卵を残して来ることを、いつからか知るようになった。
 抱き卵に生み足して、小鳥たちはいつまでも、そのずっと先のもっともっと先までも卵を生みつづけると子供は信じていたが、その想念の懸け橋は途中でプッツリ断ち切られ、いつも黒い奈落に墜ち込んだ。僕の幼い時間感覚は、こうして小鳥の卵を数えることからはじまったが、夜が来ると、これら時間の数珠玉は脆くはじけて、僕の永遠の相はいつも紙きれみたいに四散し、永生の梯子はきっと中ほどで朽ち折れた。

 往きと違った野からの戻り道、村のどの曲り角も斜視になって、底意地悪く僕をつけ廻した。小さな盗人(ぬすっと)は陽を避けて、裏口からそっと家に辷り込んだ。
 昼さがりの家のなかは、柱時計の音ばかりばかに大きかった。ひんやりとした台所には、マッチと硫黄付木、大きなフライパンとテンプラ油、そしてキバナノアマナほどの黄身をかかえたたくさんの小鳥の卵、それらが一斉にチリチリと音を立てて、奇妙に華やぐ小鳥料理がこごっていった。
 それは、かつて噛んだ野草の苦味と、花しべの蒸れた匂いを隠していた。やがて、南国の陽光に熟れたオレンジや葡萄の香りは消えて、苔を食むトナカイの悲しみが生まれた。こうして北国の幼い魂は、神の恩寵を知るより先に、罪の意識にのめり込んでいった。
 夜になると、夜空は巨大なフライパン。夜の更けるにつれて宇宙の円盤がかしぎ、黄色い星たちはザザーッと僕に向かってなだれ込んで来た。星々は軋み、痛恨が胸を咬んだ。しかし夜が明けると、僕はまたまた卵盗みに野に分け入った。

【ことば】付木(つけぎ)は硫黄を付けた木片。キバナノアマナは、ユリ科の草で、根に1センチ大の卵形の茎を持つ。「こごる」は、かたまって集まること。「かしぐ」は傾く。

【雑感】この詩は、「メタフィジック」のタイトルが示すように、12編の散文詩のなかでもっとも抽象的である。「小鳥の卵を数えること」で育まれた時間感覚が実は脆いのではないかという疑念から、他愛のない行為の罪深さをはっきりと意識しつつも、それにもかかわらず行為を繰り返すことで、子供はますます罪の意識にのめり込んでいってしまう。罪を深く意識する営為がいかに形而上学的なことか。(2010年8月29日)


冬の星
 風雪に吹き曝された白い髪の詩人がいた、彼は北の最涯の町、ワッカナイを何も知らない、でも、ワッカナイは美しい町だと思っている、長いながいホーム、雪をのせた屋根、その端っこの、黒いマントをばさっと拡げたような夜空、その奥に、星がひとつ、スカッと光っていた。
 彼は、酔眼の奥に凍てついた星を、いくたびも悔恨の布切れで磨き上げた、もう、爪の立たない堅いかたい、青い玉になり、臨終のとき、詩人の瞳孔は、ひととき、サファイアの光を光ったあと、ワッカナイの空に還ってゆくだろう。
 眼鏡の玉を拭くように、今夜も、居酒屋の片隅で、彼は、星を磨いている。

 だが、ある日、私は一つの星をつまみ上げた、厳冬、一月十六日というと、決まって、キシ、キシ、海の遠くから、白衣は、かそかな衣擦れの音を立てて、近づく、野生のリラ、ドスナラが、明るい火の粉をはじきとばす炉辺の、木の瘤や貝殻や十勝石にまじって、星が一つ忍び込んでいたのを。
 空から落ちて、星は丸い岩になり、船人を導き、汐の干満をはかり、子供達に帰宅を教える星になった。そこは星岬、ノチウエンルム、だが、きびしい流氷にとざされる前、星は、一年の勤めを逃れて、そっと子供の玩具箱にかくれていた、それは、頬赤らめた、あったかい星だった。

【ことば】リラはライラックの仏名で、落葉低木。ドスナラはハシドイの俗称でライラックの近縁種。ノチウはアイヌ語で星の意。エンルムは、エサシとともに岬を意味する。

【雑感】この詩は、12編の散文詩のなかでもっとも美しい。戦後、町史編纂のためにオホーツクの町に訪れる途中で稚内に立ち寄った聰が、戦中、戸隠の宿の炉辺で語り合うことができないままに失った詩友、津村信夫を偲んだものでないだろうか。
 『日塔聰詩集』に収められている「津村さんの死」に次のような文章を記している。

 しかし詩人の死というものは所詮、誰も知らない裡に絶えず予告され遂には天上に成就される性質のもので、詩人やその周りの人がそれを語り合う前に、既に詩の運命の方が最もよく知っていることなのだろう。生前のどんな詩にも歌い切れなかった一つの歌が最後に死によって完結され、死をさえ忘れさせる永世の光に照らされながら、すべての愛する者の手や愛読者の書架から、すべての窓や枝々や小鳥の小さな嘴からゆるく逃れて行って、そして遂に夜空の、星座のきびしい配置に坐ってしまうものだろう。

 津村さんの死から二月後、矢張り兵営で、「大倉村の手紙」の主人竹村さんの訃報を手にして、僕はただ呆然としてしまった。何時か津村さんと話したことのある、我にむかひて光る星あり、の歌のように、詩人の死は歌となって星空に昇り、この世ならず光り続けるとしか思われない、そんな風に象徴的にでも考えなければ、道を歩いていてもひょっこりとあのおおらかな微笑に逢えそうで仕方がないのだ。

 詩人は、遠く離れた地で詩を書いているはずであったが、いつのまにか、ワッカナイの夜空で星となっていた。その星は、沖の小さな岩礁に落ちた。アイヌの人たちがノチウエンルム(星の岬)と呼んだ岩礁は、1月16日に流氷が接岸するまでは、沖を行く船人の目印となってきた。沿岸の人々には、潮の干満をはかる目安となり、時を伝える時計となった。岬が闇に消えるころ、子供たちは帰途を急いだ。しかし、いったん海が流氷に覆われると、岩礁の一部となった星は、流氷が岸を離れるまでの間、しばしお役御免となる。一年のお勤めを終えた星は、炉辺のおもちゃ箱にまぎれこんでいた。
 「私」は、詩人が星となっていたことなど知る術もなかった。「だが、ある日、私は一つの星をつまみ上げた」のである。炉辺で歓談が始まろうとしている。(2010年8月29日、9月11日)


【私事】私の2010年8月は、社会人となった1983年以降、もっとも無為に日々を過ごしてしまった。直面する状況に対して働きかける能力にそもそも欠け、不十分な能力をかこつばかりで、働きかける努力さえ怠った所以であった。この一ヶ月、まっとうに向き合った読書は、奥平さんが送ってくださった『日塔聰詩集』、大学の図書館から借りた『枝幸町史 上巻』、古本屋から購入した『雄武町の歴史』の3冊だけだった。
 聰は、津村信夫を偲んで「我にむかひて光る星あり、の歌のように、詩人の死は歌となって星空に昇り、この世ならず光り続けるとしか思われない、そんな風に象徴的にでも考えなければ、道を歩いていてもひょっこりとあのおおらかな微笑に逢えそうで仕方がないのだ。」と書いている。
 強靭な精神で直面する世界を象徴化し、抽象化し、目前の厳しい現実をしかと受け取っていく営為こそが人間にとって尊いことを、聰の作品は教えてくれているように思う。そして、これは自分にとってもっと確かなことなのだが、この1ヶ月、聰の作品に向き合ってきたことが自分の精神の均衡を取り戻すきっかけを与えてくれた。
 日塔聰という詩人の3冊の作品に出会えた偶然に深く、深く感謝しなければならない。(2010年8月30日)


【ノチウエンルム、あるいは、星の岬の後日談】(2010年9月11日)


詩人の部屋
ホームのページ